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「中国塗料100年史」正誤表

(PDF/2017年6月27日現在)

 

 

 

1945年 ~ 1950年   戦後復興

広島本社工場に壊滅的な被害をもたらした原子爆弾。そしてさまざまな過酷な政策や景気の波が、復興に向けて歩む当社を襲います。

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1945年 原爆により広島工場崩壊

被災後の広島工場
1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、広島に原子爆弾が投下されました。爆心地近くの勤労部と資材部は一瞬のうちに壊滅し、爆心地から2.3kmの本社工場も大きな被害を受けました。戦後の調査で判明した当社の原子爆弾による犠牲者は54名にのぼり、うち原子爆弾投下の当日に亡くなった人は36名でした。

五日市工場、岩国工場の平和産業転換
原爆により本社工場が8割方倒壊したものの、五日市工場と岩国工場は無傷で残存していたため、終戦後ただちに平和産業への転換を図り、軍需生産用資材を活用して洗濯石鹸や歯磨粉、靴墨、バケツ、手桶、茶筒、マッチ、肥料などを製造しました。これらに加えて、従業員の生活物資の不足を補うため、廃材や敷地の一部を利用した製塩や農作物の栽培も行われました。
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1946年 広島工場復旧工事(第一期)完了し塗料生産再開
再建した広島工場
会社経理応急措置法による特別経理会社に指定
戦後復興が緒に就いたばかりの当社にとって大きな打撃となったのが戦時補償の打ち切りでした。これは、戦時中に政府が支払いを約束した代金に対し100%の課税をするもので、実質的な債務の切捨てを意味しました。軍需会社として多額の債権を有していた当社の財務状態は危機に瀕することとなりました。戦時補償を打ち切られる企業を救済するため、1946年8月には会社経理応急措置法が公布され、特別経理会社に指定された当社は特別損失を処理する再建整備計画を作成し、最終的に新旧勘定を合併して再建を終えることとされました。
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1947年 クーポン制による塗料製造用指定生産資材割当基準告示
戦後復興の進展により、塗料の需要は急増しましたが、原材料の調達は困難な状況が続き、各工場の生産能力に基づく割当方法として、クーポンと引き換えに資材を入手する制度が始まります。生産者が資材を得るために需要者からクーポンを集めなければならず、クーポンを確保するため、手形決済期間の延引といった厳しい条件を承諾せざるを得なくなり、当時の激しいインフレや金融の逼迫と相まって、当社の資金繰りは急激に悪化します。
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1948年 企業再建計画完了。指定を解除され新旧勘定を合併
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1949年 広島証券取引所に上場
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1950年 飯野海運の3名が取締役、1名が監査役に選任され、飯野海運の傘下に入る
戦時補償の打ち切りとクーポン制度により苦境に陥った当社に、ドッジ不況がさらなる追い打ちをかけます。当社は製品代金の回収が困難となった上に、当期損失を計上することとなります。負債の膨張は止まることなく、資金繰りは厳しさを増し、当社は工場閉鎖の瀬戸際に追い込まれました。こうしたなか融資先を得るため奔走し、飯野海運に支援を求め、同社の経営参加が決定しました。これを受けて、飯野海運から取締役と監査役が派遣され、ようやく資金繰りの目途をつけることができました。
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