COMPANY
中国塗料の歩み
当社は「優秀な船底塗料の開発」を目的に1917(大正6)年に誕生しました。戦前戦後に訪れた危機を乗り越えた当社は、さまざまな分野へと事業の範囲を広げ、広島の小さな塗料製造会社から世界35か国に100の販売拠点を持つ企業へと成長しました。
中国塗料は創業から続く「優秀な製品づくり」への想いと、新たな分野を切り拓くチャレンジ精神で、次なる100年への歩みを始めています。
1917
年~
[ 創業期 ]
国産船底塗料の黎明
広島の小さな塗料製造会社としてスタートした当社は、輸入品に負けない船底塗料の開発を目標に実績を重ねますが、日本は太平洋戦争という暗い時代に進んでいきます。
1917
年
中国化学工業合資会社を設立、資本金5万円

創業者 鈴川巌
1917年、日本は空前の好景気のさなかにあり、なかでも海運・造船は大きな発展を遂げ、英国・米国に次ぐ世界第三位の海運大国に成長していました。その一方、わが国の船底塗料の開発は遅れており、その多くを輸入品に頼っていました。このような時代背景の下、当社の前身である中国化学工業合資会社が広島市に誕生します。創業者の鈴川巌は優秀な国産船底塗料の開発を目標に技師として腕を振るい、創業後まもなく日本、米国、英国で油性船底塗料の特許を取得するなど、順調なスタートを切りました。
1923
年
中国塗料株式会社に改組、資本金25万円
品質の高さから当社の塗料は広島を代表する工業製品として広島県商品陳列所(後の広島県産業奨励館)の展示品となりました。
同陳列所は、その後原子爆弾で被災し、「原爆ドーム」として現存しています。当社の製品は被爆時まで展示されていました。
1924
年
吉島本町416番地へ移転

広島本社工場

船底塗料試験筏 (1927年)
1929
年
電気分解法による亜酸化銅製造開始

亜酸化銅製造電解槽
1929年には電気分解槽などの設備を導入し、防汚剤として用いられる高純度亜酸化銅の自家製造を開始しました。また、フェノール樹脂や酸化鉄顔料(ベンガラ)の製造など、原材料の内製化も積極的に進められました。
船底塗料が大阪船主会の指定品となる
1930
年
鉄道省の指定工場となる
鈴川社長欧州視察(5~8月)。尿素樹脂と吸入用酸素発生剤に注目
1930年に新聞社主催の欧州視察に参加した鈴川は、ドイツで酸素発生剤に、フランスで尿素樹脂に注目し、多額の権利金で購入、帰国後これらの研究を進めます。
船底塗料が商工省の優良国産品に指定される
1931
年
海外取引の便宜のため、本社を大阪市へ移転
1935
年
有機ガラス「プリスライト」を開発

尿素樹脂の製造
(1935年頃)
尿素樹脂の研究により開発された樹脂は「有機ガラス/プリスライト」の名で、同製品の専業として設立した東洋合成化学工業株式会社から発売されました。「プリスライト」は美しさと加工のしやすさから装飾品などに用いられましたが、戦争が始まると装飾品の販売は自粛する事になり、東洋合成化学工業も当社に合併されます。
1936
年
酸素発生剤を開発

航空機用酸素発生剤を
容器に装備した写真
創業直後から空気清浄剤の開発を行っていた鈴川は、欧州視察先のドイツで酸素発生剤を目にして以降、その研究を加速させ、独自の酸素発生剤を開発します。そして製品として発売後は戦傷患者用や航空機用へと用途を広げ、艦船の建造が滞った戦争末期には当社の主力製品となります。
1940
年
本社を広島市吉島本町へ移転

荷馬車による製品出荷(1939年頃)
1943
年
増産と分散疎開を兼ねて、山口県岩国市に岩国工場を建設
陸海軍共同管理工場となる
当社は、船底塗料のほかにもさまざまな製品の開発を続けていましたが、太平洋戦争の直前から始まった政府による産業統制政策によって、製造能力の不足から一旦は廃止の対象とされました。結果的に当社は船底塗料の専用工場であるとの名目でかろうじて存続が許されましたが、この工場整理により、日本の塗料製造工場は106工場を残して305工場が廃止されました。
1945
年
増産と分散疎開を兼ねて、広島市五日市町に五日市工場を建設